最近思う、
どんな人生もそれぞれ、
成長の目的があって、
人生を比較することなんて全く意味のないことだな、って_。
ほとんどが、たとえそれがどんなに身近な人であったとしても、
他の人の目には全く見えない形で、
その人だけの成長や達成を持ち、
進み続けている、と。
先日、久しぶりに夜、実家へ帰った折、
母が毎日続けているという滑舌の練習の『外郎(ういろう)売り』という朗読を聞いた。
身内ながら、母は実に根気強い。
短歌も書いていて、もう何十年も日々製作しつ続けている。
母の巧みな朗読は小さい頃から舌を巻いたものだったが、
数年前に聞いた時より、技術が確実に上がっているように感じた。
それに短歌製作したそのノートの数の多さと言ったら、半端ではない_。
いつも思うのだけれど、母のこのひたむきさがどれほど自分に影響したことかと思う_。
手を壊し、それを人に言えずに7本指でピアニストとして20年以上も弾き続け、
家庭教師や塾講アルバイトをしながら悶々としていた頃、
よく人のコンサートの譜めくりの仕事をこなす中で、心の中で叫んでいた_、
『自分だって、音楽家だ_!』
手を直したい一心で、6時間も同じ音を、
カールしてしまう指で弾いていたあの頃_。
人から見れば笑ってしまうくらいの、
ほんの少しだけ上がるようになった指に、
『どんどんよくなってる』と自分を鼓舞し、
そのわずかな成長ぶりに、こころから歓喜していたものだった_。
あの経験を通して、今のぼくがいる_。
難病も25年かかって、ついに克服し、ショパンのエチュードが弾けるまでに戻った。
その経験から、今、改めて思う_。
比較に全く意味はない。
全ての人がとても大切な存在であって、
他の誰も代わりはできないし、
その人だけの大切な経験の道を、
深い自身の目標に向かって
それぞれが、まさに『人知れず』歩き続けている。
_みんな違っていい_。
だからこそ全ての人が
ユニークで大切な存在なんだ、と_。
そんな経験から、
以前にも同じようなことを書いたけれど、
僕はどんなレヴェルでもフィールドでも、
できるだけジャッジすることを避けるようになった。
表面的なこと_他人にそれとわかることからでは、
全く人は計れないからだ。
本当に、全く_。
そして何より、僕らはジャッジするためではなく、
喜び_学び、変化成長するために生きているのだ、と僕は信じている_。
どんなことも、心を静かにしてあるがままを、
ジャッジを加えずに見つめること以上に大切なことはないと、僕は思う。
そもそも社会的な基準と呼ばれるものであったり、
善意からのものであっても他人の刹那的な判断や期待は、
自分の中の真実とはまるで違うものだ。
でもよく、その発言を聞いていて、社会やメディア、果ては有名人の発言やクライテリアを自身のものと混同したり、
周りの期待や希望に沿うために、
自分の本当の深い真実に向き合うことを後回しに、
あるいは完全に無視しているのでは_と思わされる時がある。
『本当の深い自分は何を感じているだろう?
信じているだろう_?
何をしたいだろうか?』
この他でもなく自身への誠実な問いかけは、どんな時も私たちの成長への大切な第一歩ではないだろうか。
思いやりを持つこと_、
同時に、恐れず自分に誠実に生きること_、
そして、自分を信じ抜くこと_、
その大切さを思う。
_自分を信じて生きることは、
何も著名なアスリート達だけの特権などではない。
